本を開けると霧の中。どこかの街だ。ページをめくってゆっくり進む。視界は10Mぐらいか・・・。青になった信号が、急に現れる。バスも車も、霧を巻きこみながらゆっくり走りすぎる。先に何があるのか、目を凝らしながら霧の中を進んでいく・・・・。




霧を表現するには、いろいろな描画の方法があるだろうし、印刷の技術を駆使すれば、優秀な作家なら、見るものを霧の中に誘い込むことはできるだろう。しかし、ブルーノ・ムナーリの自由な魂は、そんなことよりも、もっと簡単な方法に行きついたといえる。発想の転換というべきか、デザイナーのキャリアの産物というべきか。要は、才能の賜物、あっさりと紙質を利用するだけで、究極の霧の表現に到達したのだ。トレーシングペーパーの魔術である。
トレーシングペーパーに描かれた絵は信号の緑のほかは黒一色しか使われていない。確かに霧の中で、ものはこんなふうに見えそうだ。




やがて霧の向こうに、やっと何かが見えてくる。突然現れたのはカラフルな「グランドサーカス」である。それまでトレーシングペーパーでつくりあげていた、ミステリアスな雰囲気は一変する。ただのサーカスではなさそうだ。何か楽しいことが始まりそうでワクワクする。「先に進んでみよう」と、気がせく。 どうしてもサーカスを覗いてみたくなるのだ。なんたって、ページに穴があいているのだから。
穴のむこうを覗いてみると、ピエロはブランコに乗り、楽隊はラッパを吹いている。また穴があいている。「もっと行ってみようよ。」ブルーノ・ムナーリの術中にはまっていく。
結局、どのページにも穴があいている。大きさはページによって様々で、形は丸か半丸である。穴があいていれば、覗きたくなるのが心情というもの。覗くということは、次のページに進むということで、いやでもサーカスの展開にのせられていくことになる。時々前のページに戻りたくなるのを、グッと我慢しながら、どんどん進もう。あいている穴から見える光景は、そのページ限りではなく、ちゃんと、次のページへの関連性を持たせながら、ずっと続いていくのだ。中には、6枚ものページを貫いている穴があるのには驚きだ。




このサーカスのページは、不思議なインパクトで迫ってくる。圧倒的な色使いが、日本人的感覚を覆す。ページに使われている紙は、トレーシングペーパーから、うって変わって、色ケント紙か色画用紙(もっと呼び名があるかもしれない)である。画面の色に、印刷では出せない柔らかさと、鮮やかさがあるのはそのせいだ。絵は、すべて同じ黒で描かれているはずなのだが、画面の色によって、全然違った黒の線に見える。配色の錯視とでもいうべきか。黄色に黒という配色と水色に黒という配色では黒の意味が違ってくる。どの配色が好きかでその人の心理が読めそうだ。

サーカスを通り過ぎると、家路につくことになる。それは、また霧の中である。帰り道は、森の中のようだ。また視界10M。目を凝らしながら、道を探して進む。トレーシングペーパーの表と裏に描かれた草木が、さっきの興奮を、急に冷ましてくれる。裏表紙を閉じたときには、「あれは、夢だったのかなあ・・・」と思わせるような、不思議に感傷的な気分になる。




この絵本は発表されて40年も経つ。40年前といえば、まだ私は中学生か、高校生の頃だ。高知の片田舎で、深夜放送のビートルズを聞きながら、外国がまだ、宇宙のようにはるか彼方にあった時代だ。ブルーノ・ムナーリはその頃にこんなすごい絵本をつくっていたのかと思う。そして今、自分がそれを手にしている事実に、愕然とする。







ここに子どもたちの絵がある。年中の子どもたちが描いた、海の中で泳いでいる絵である。私の頭の中に、ある日突然、トレーシングペーパーを材料にした絵画製作がひらめいたのだ。「なかなかいい考えだ」と自画自賛。水色の画用紙に、海の中の絵を描く。子どもたちに、「よし、泳ぎに行こう」と、声をかけ、トレーシングペーパーを上にかぶせて、黒いサインペンで自分を描かせた。二枚の紙は上の方だけのりづけしてめくれるようにした。
そのときは、全くブルーノ・ムナーリを意識したわけではなかったはずだ。しかし、本棚部屋から久しぶりにこの絵本を見つけて、はっきり分かった。記憶の奥底に沈んでいたトレーシングペーパーの記憶が、私のアイデアの中枢を刺激しつづけていたに違いないということを。


ブルーノ・ムナーリ在りしのイタリアから、遠く時空の離れた日本の片隅で、自分の作品につながる製作をした子どもたちが、いるということを知ったら、ブルーノ・ムナーリは、喜んでくれるだろうか。
人に伝えていくもの、いや、伝えられるものを持っている人は、偉大であり、それを受けとる機会が得られた私は、幸せだと感謝しないではいられない。


参考までに・・・
「霧の中のサーカス」日本語版は、 好学社から1981年に出版されたが、今はなく、図書館でなら見られる。







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