ルピナスというのは、花の名前である。日本では、あまりポピュラーではないかもしれない。
イギリスにいたとき、家の近所にとても親切な奥さんがいた。私のことを、言葉も分からない外国に、子どものような若さ(日本人はそう見えるらしい)で、幼い子どもを抱え、おどおどとやってきた、孤独でかわいそうな東洋人と見ていたらしく、大げさな身振り手振りの、極端にスローな英語で、彼女の家の庭に招きいれてくれたことがある。ことのきっかけは、彼女が丹精している前庭の花を、私が、頭に浮かびうるかぎりの単語の羅列で、褒めまくったたことに始まるのだが・・・その庭に咲き乱れていたのが、ルピナスの花だった。それは見事で、中庭のフェンス沿い一面に咲いていた。風に吹かれて首をゆらしながらも、何本もまっすぐに伸びていた。毅然とした花だと思った。




主人公「ルピナスさん」の本当の名前は、ミス・ランフィアス。小さい頃はアリスという名前だった。どうして「ルピナスさん」といわれるようになったのか。それが、この物語の大切な主題である。

おじいさんから、毎晩、遠い外国の話を聞いて育った、小さなアリスは、おじいさんと、ある約束をする。「世の中を、もっと美しくするために、何かをすること」。小さいアリスには、それがどういうことかは、理解できなかったが、その約束が、幼いアリスの心に、種をまいたということになる。


子どもは、あっという間に大人になる。おそらく、この教養深いおじいさんのもとで、アリスは、賢く成長したに違いない。ミス・ランフィアスとなり、思い立ったらすぐに行動、幼い頃に、おじいさんに聞かされた遠い外国に、本当に旅をする。 どうやら、ミス・ランフィアスは、アクティブなレディになったらしい。さまざまな国を訪れ、大勢の忘れられない人たちと出会う。いつしか年をとり、「もう遠くの国々は十分だわ」と思うまで。


その後、年をとったミス・ランフィアスは、海のそばに家をかまえ、のんびりと、残りの人生を楽しむようになるのだが、おじいさんとの約束を、果たしていないことに気づく。「世の中を、もっと美しくするために、何かをすること」という約束。でも、何をしたらいいのか・・・彼女は、じっと自分の身の回りを見つめているうちに、すばらしいことを思いつく。自分自身が、美しいと感じたことを、素直に行動に移すことができるミス・ランフィアスは、年をとっても、やはり、アクティブなレディだ。
約束を、果たすためにとった行動と結果は、息をのむほど美しい。大それたことではないかもしれないが、確かに美しい。それによって、彼女は、「ルピナスさん」と呼ばれるようになる。おじいさんとの難しい約束は、果たされたのだ。




それだけでは終わらないのが、この絵本の最も感動的なところだと、最近思うようになった。
この物語は、ルピナスさんを大おばさんと呼ぶ、一人の女の子の目線で書かれてある。物語の最後で、この女の子は、年をとったルピナスさんと約束をする。「世の中を、もっと美しくするために、何かをする」と。さりげなく受け継がれていく約束に感動を覚える。
クーニーの絵は、物静かで、気品がある。ドラマチックな冒険の場面でも、静かに流れる日々の場面でも、隅々まで非の打ち所がない細やかさを感じる。独立心にあふれた一人の女性の人生が、1ページ1ページの美しい色彩と共に、沁みわたってくる。また、語り口は、淡々としていて、飾り気もないが、一人の人間の重みある人生が、くまなく語られていて、永遠の時の流れを感じるほどだ。
最後のページに、凛として咲き乱れているルピナスの花が、世の中を美しくするものの代表のような気がして、私も、そういう「何か」を探してみたくなる。




人生の生き方や価値観は、子どもを取り巻く大人の考え方が、恐ろしいほどに、影響するといわれているが、ルピナスさんを、ここまで至らしめたのは、他ならないおじいさんである。幼い頃に祖父母に聞いた言葉や伝えられた事柄は、時が過ぎると、うすれていくものだが、必ず心のどこかに残っているものなのだろう。この年になると、ルピナスさんの心に種をまいた、このおじいさんに興味を惹かれずにはいられない。人生に何が大切か、どんなふうに生きていってほしいか、さりげなく教えるおじいさんは、世の中を、美しくする「何か」は、自分で見つけることに意義があることを、十分に知っていたのだろう。それは、この作者のバーバラ・クーニーが、そういうことを分かっている人だからであり、優れた絵本は、作者の人柄や、価値観に基づいて、生み出されるのだと思うと、読み聞かせる側としては、身が引き締まる。





私の母は、今年で78歳になる。元気な母で、よく歩く。前向きなものの考え方をする人で、自分からいろいろな楽しみを見つけて、くるくるとよく動くおばあちゃんだ。少し忘れっぽくなってきたが、携帯電話を持たせると、娘である私の、罵倒に近い教え方にもめげずに、根性で練習して、しっかりメールを返してくるまでになった。ある日、孫娘と電話で話した折に、「おばあちゃんは、忙しくてね、体がもうひとつほしいくらいよ。」と言ったことがあった。それだけ元気なら安心よね。と笑ったものだが・・・この孫娘、あろうことか、就職試験の面接で、あなたの尊敬する人は?という質問に、「祖母です。」と答えたらしい。有名な偉人ではなく、残念なことに、父でもなく母でもなかった。「祖母のように、いつまでたっても、体が二つ欲しいというくらい活動的でいたい。」という理由だと答えたのだ。 高知の田舎で、ひたすら夫につくし、子どもを育て、今は一人暮らしの平凡な母ではあるが、いつの間にか、立派に、孫娘の心に種をまいてくれているなあと、感謝した。


人から人へ伝わるもの、受け取るもの、そういうものを、しっかりと心のうちに蓄える器量を持ちたいものだ。





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