題名を聞いただけで、それぞれに、すぐに思い出すことができる最高潮の場面がある。
「さんびきのやぎのがらがらどん」は、おおやぎの登場場面
「もりのともだち」は、おんどりがきつねを追い出す場面
「パンはころころ」は、きつねの鼻の上でぱんが歌っている場面


この中で、私が一番びっくりしたのは、「もりのともだち」の、おんどりがきつねを追い出す場面で、あまりの迫力に、思わずのけぞってしまった。 うさぎを騙した、ずるいきつねのうわべだけの脅し文句、「おいらが、本気で出て行けば、毛がごっそりと飛び散るぞ」のとおり、最後に、勇気あるおんどりが、きつねに跳びかかり、当のきつねの毛がごっそりと飛び散っている。赤と緑と黒だけで、きつねの悲鳴と、おんどりの叫びが聞こえそうだ。ここまでの表現ができるとは、と、いつ見ても感心する。


一番好きなのは、「パンはころころ」の、きつねの鼻の上でぱんが歌っている場面。きつねの毛並みのきれいなこと。逃げ出したぱんは、おじいさんも、おばあさんも、のうさぎも、ひぐまも煙にまいて、かなりお調子にのっている。この様子が鼻についてきた頃に、こんなにきれいなきつねに登場されたら、いくらきつねがずるくても、こっちの味方をしてしまいそうだ。鼻の先から、耳の先、足の先まで、美しく描かれてある。赤のかすれ具合がまたきれいだ。逆に、「自分に酔うのもいい加減にしないとね」と、ぱんにお説教したくなる。


この3冊は、何度読んだことか。読んでいるうちに、ふと、疑問がわいた。 よく昔話や民話絵本の紹介に、お話の中の繰り返しが楽しく、小さい子にも分りやすいと書いてあることが多いが、ちょっと待って。確かに、繰り返しはよく出てくるが、この繰り返しの意味は何だ?


「もりのともだち」は、最後に出てくるおんどりの勇気を、強調するための繰り返しのようい思える。「パンはころころ」の場合は、パンが食べられることになる必然性を、導くためのように思える。どちらにしても、この二つは、なんだか似ているような気がする。最後のドラマチック場面に向かって、繰り返しによる緊張感が、高まっていく。
「さんびきのやぎのがらがらどん」は、ちょっと違う。もっと別なものが、働いている。何だろう。


この疑問について、私に解決の糸口をくれたのは、子ども達だった。 10年ほど前、「さんびきのやぎのがらがらどん」を読んだ後、ごっこ遊びをしようということになった。みんな大きいやぎになりたがるだろうし、遊びになるかなあ。と勝手に思ったのは、大間違いで、役を決めるのに、何の苦労もしなかった。子ども達のやりたい役が、大きいやぎに限らなかったからだ。小さいやぎになりたい子もいる。中くらいのやぎになりたい子もいる。大きいやぎも確かにいる。もちろん私は、トロルだ。ちょっと納得がいかない感じで、子ども達を観察していた。
小さいやぎと中くらいのやぎの子は、トロルから逃れた後は、ほっとした表情で、後の成り行きをわくわくした面持ちで見ている。大きいやぎの子は、トロルをやっつけた後は、得意になっている。見ているうちに思った。私なら、どのやぎになるだろうか。トロルと戦う大きいやぎは、かっこいいが、それはできないだろう。かといって、小さいやぎは、不安すぎる。中くらいのやぎで、何とかできないか・・・。姑息だろうか




人生、難儀が降りかかることはある。難から逃れる方法もいろいろある。とにかく自分が考えうる限りの安全策をとるのが、人の常である。それぞれの子ども達が、自分が考える安全策を選んでいるのかもしれない。
このお話の繰り返しは、ただお話を盛り上げるためのものではないのではないか。世の中いろいろなタイプの人間がいて、みんながみんな、戦う勇気を持って立ち向かうとは限らない。また、それが得策かどうかも分らない。
さすがの民話だ。三匹は、難からの逃れ方を、本音のところで提示しているのかと考えるのは、またまた深読みだろうか。
ドラマチック場面は、おおやぎが登場し、トロルをやっつける場面が最高潮ではあるが、それぞれのやぎの、トロルをやり過ごす戦いも、ある意味ドラマチックではないか。


昔話や民話の解釈は、絵を描く作家のお話の捕らえ方で違う。ドラマチック場面がどこなのかを、絵本を味わいながら考えていると、作者の価値観が、ほんの少しでも見えてきそうなのだが。おおよそ、私たちのような平凡な人間には、謎だらけである。しかし、子どもにとっては、そんなことはどうでもいいことで、楽しく、心に響く絵本を貪欲に求めているのみだ。
やっぱり、子ども達についていこうと思う。





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