表紙。きれいな「まる」が、グラデーションで重なっている。真ん中に、蓮の花を思わせる模様。十一面観音ファンの私には、仏像の台座にしか見えなくて、第一印象で惹かれた絵本だ。
形をテーマにした絵本は、たくさんあって、派手な色彩の絵本や、形の勉強のような絵本、形からの意外性で押していく絵本などしか見たことがなかった私には、シンプルこの上ないこの絵本は、かえって、新鮮だった。「まる」という形のみで、ページは続いていくのだが、それぞれの「まる」にすごく深い意味があって、何かの教えをひも解いているような感じがする。


表紙を開けると、小さな黒い「まる」がある。そして、金色の小さな「まる」も。よくよく見ると、ただの茶色なのだが、私には、なぜか金色に見える。
めくっていくと、ほとんどの画面は、白地そのままで、「まる」から連想されるものが、ひとつかふたつ描かれている。赤や桃色、黄色は、本来はっきりした色のはずだが、いい具合にシックな色合いにおさえてある。だが、インパクトは強い。 読む側は、ひどく「まる」を意識するだろう。
お話には、ストーリーはなく、おそらく詩であろう、たにかわしゅんたろうさんが、訳した詩は、神秘的で奥が深い。




私たちが「まる」から連想するものといえば、すいかだの、タイヤだの、フライパンだの、妙に俗っぽいものになるのだが、この絵本に登場するものはちょっと違う。仏様のような目、お日様、はすの花、カブトムシ、たまご、ふくろう。ラストに渦巻きが登場し、そこから導かれていくものは、なんと手のひらの絵。手のひらに、「まる」があったのか。思わず自分の手のひらを見てしまう。この絵本の生命力が、自分の手に流れ込んできたかのような、錯覚に陥る。




作者ラマチャンドランは、インドの人である。そう思うと、なんだかこの絵に納得する。最後のページは、初めと同じ黒い小さな「まる」で閉められているが、この「まる」は、最初の印象とは、まるで違う。「ちょっと待って、もう一度見せて。」と、誰もが思うはずだ。


学生の頃、デザインの授業で、「花」「虫」などを題材にしたデザイン画が、課題に出たことがあった。自分で描いた「彼岸花」と「ほたる」のデッサン画を前にして、どうデフォルメしたものかと、頭をかきむしって、かなり悩んだ。この絵本の、はすの花とカブトムシのデザインを見て、当時の苦しみを思い出した。
この絵本の一見簡単そうに見える、はすの花とカブトムシ絵も、見て気持ちのよいデザインにするためには、作者の高い美意識と、対象物を形で分析する高度なデッサン力が不可欠なはずだ。未熟者の私には、とうてい考え付かないデザインである。




もしも当時、こんな絵を目にしていれば、美術科の授業の課題のうち、いくつかは、もっとましな作品に仕上がったのかもしれない。実際に見たものの印象は、脳にしっかりと蓄積されるはずだ。若いときに、遊んでばかりいないで、もっと真剣に、いろいろなものを目にする機会を持っていればよかった・・・・。と、今頃、反省している。課題の提出日に、作品を、恐る恐る教授に差し出すときの、あの緊張感は、今でも夢に出てくるときがある。


子供たちには、優れた美意識や、ものを見る目を持って欲しいと思うのは、親としては、当然の願いだ。では、親は、何を美しいと思っているか。それが、問題だ。迷ったとき、とりあえず、優れた絵本を見せてみよう。かわいいだけじゃない、本当に価値あるものを選んで子どもの身の回りに置くのも、親の役目かもしれない。かといって、私がほんとにそういう子育てをしてきたかというと、そうでもない。今だから気がついたことでもある。





私は、子ども達に、絵画や造形を教えてはいるが、長年やってきて、最近、ある思いに捕らわれている。「小さい子どもは、いったいいつからものの形の認識が具体化するのだろう」これは「まる」これは「さんかく」これは「しかく」三角や四角は、そういう形の名前を教えないと、認識はできないだろうが、「まる」に関しては、年少の子どもたちは、はっきりと、認識していて、しかも、表現できる。早い話が、「まる」が自分で描けるわけだ。
こどもが、ものの形を認識することと、表現できる(描ける)ことは、別の問題ではある。「まる」を描くことは、子どもの手の運動能力や、神経系統の発達にも関係しているからだ。


子どもが絵を描き始めるとき、1歳半ぐらいから、まず、なぐりがきから始まるが、もちろん、この時期は、絵というよりは、手の運動感覚と、手を動かした、その軌跡が、目に見えて現れる快感を、楽しんでいる。といったところだろう。それは、気持ちがよかろう。自分が動かした分だけ、線が現れて連なっていくわけだから。




そのうち、2歳半ぐらいになると、大人が「これなあに?」などと、聞いたりするものだから、子どもの方は、描いたものに、意味付けしなければならなくなる。それが、身近なものに限られているのは、子どもの世界が、まだ、空間的に広がっていないからだろう。子どもというものは、自分を中心にして、半径3mぐらいのものしか注意がいかないのだから。
そのうち、描いたものが、何かを表すことができるのだと理解した子どもは、目的を持って描き始める。「これは、ママ。これは、いちご」とか、しかし、いかんせん、ほとんど同じ「まる」のような形か、ぐちゃぐちゃとした線の塊で表される。大人には、どれが、ママで、どれがいちごか分らない。まあ、本人がそのときに言ったことを納得してやるしかない。時間がたってから、また聞いたりしないほうがいい。さっき「これママ」といったものが、いつの間にかいちごになったりしているからだ。


3歳ぐらいでも、「まる」の描き始めは、なかなかまるが、きちんと閉じない。だが、一度描き始めると、なぜか、いっぱい描きたがる。画用紙に一面に描く子もいれば、まだ視野の狭い子は、重ねて描いたりする。もし、記念に絵を置いておきたいならば、このへんで、やめさせたほうがいい。子どもの絵は、描いているうちに、どんどん変貌していくから。せっかく描いたママも、いちごも、ごちゃごちゃと他の線が上を走り、塗りつぶされ、線路や、怪獣に変身していくことが多い。しかし、これも、子どもの絵であり、きたなくなっても、それなりに、本人は、満足したりする。こんなとき、「この子は、絵がへただ」などと思わないことだ。子どもの絵に上手下手はない。




いつからきれいな「まる」が描けるようになるか。実は、きれいな「まる」をかくのは、小さい子にとっては、かなり難しいことなのだ。
私は、きれいな「まる」を描くことは、かなり、知的なことであると考えている。それは、子どもが、落ち着いて、穏やかでないと描けない。「まる」を描くという目的意識がないと描けない。軌跡を予想する知恵がないと描けない。手や腕のコントロールができないと描けない。最後にうまく線を閉じさせる巧緻性がないと描けない。「まる」つは、手ごわいものなのだ。


 


子どものお絵かきは、遊びであり、生活の一部のはずだと思っているが、近頃は、お絵かきは、才能教育のひとつであるという、位置づけになっている気がする。
自由に、「まる」をたくさん描かせてやろうじゃないか。ただし、無理に描かせる必要はない。「まる」でなく、まっすぐな線に固執する子もいるからだ。とことん描かせてやることが、子どもの絵による表現の発達を、助けてやることであり、気持ちよくさせてやることなのだから。







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