ぬいぐるみを含めて、人形は、子どもにとって一番最初の友達である。話し相手であり、淋しさを慰めあう同士であり、楽しみを共有する兄弟でもある。たいていの子どもは、小さいときから、お気に入りの人形を持っているが、母親にとっては、ある意味、子どもの面倒を見てくれる、ありがたいベビーシッターであるともいえる。いつもの人形を持たせておくと、安心して、おとなしくしている子どももいるだろう。
私の従妹は、いつも、赤い犬のぬいぐるみを、かわいがっていた。彼女は、それを「アカワン」と呼んでいた。高校生になっても、ベットのすみに座らせていた。シッポはちぎれ、目は半分ほどになり、毛は薄くなり、哀れにも思えるほどだったが、本人にとっては、特別のものだったらしい。
子どもは大きくなる。人形は古びていく。そうしていくうちに人形には、オカルトではないが、本当に魂が入っていくのではないかと思うときがある。

ぬいぐるみや人形は、最も子どもに身近なものであるが故に、お話や絵本に、たくさん登場するが、かわいさを売りにした、甘ったるい話で終わって欲しくないと、いつも思う。お話の中では、人形だって、きちんと一人前の人格をもって、描いて欲しい。

以前、第三回の「本棚部屋から」で、少し紹介した絵本は、みんな一人前の人格を持った人形物語である。改めて紹介したい。


ちいさいおうち
「ふわふわくんとアルフレッド」


娘は小さい頃、どこに行くにも、キティちゃんのぬいぐるみを抱いていたので、「is this your teddy?」と、よく聞かれていた。「teddy」というのは、小さい頃から、常に一緒にいる人形のことであるらしい。「teddy bear」という名前のとおり、普通は、クマのぬいぐるみが、本来の意味だが、うさぎでもリスでもカメの人形でも、どうやら「teddy」ということになるらしい。子ども達が、子ども部屋のベットで、一人で寝ることが常識である欧米では、この「teddy」が、子ども達の心の支えなのではないかと思える。キティちゃんを抱いて、時には、それに鼻や口をくっつけていた娘を思い出すと、私は、娘に寂しい思いをさせていたのではないかと、反省したりもする。
ふわふわくんは、クマのぬいぐるみである。アルフレッドの小さいときからの友達で、「teddy bear」である。このふわふわくんに、その地位を脅かすライバルが現れたときから、たくましいふわふわくんの反撃が始まる。



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ちいさいおうち
「まいごになったおにんぎょう」


エドワード・アーディゾーニは、イギリスを代表する挿絵画家で、私が大好きな絵本画家の一人である。15年ほど前に、ファージョン作の「年とったばあやのお話かご」という本の挿絵で知った。
初めて見たとき、小学生の頃、図書館で本を読んでいたときの、心地よい感覚が蘇った。遠い異国の風景を垣間見るような、紗のかかった憧れの匂いがした。結構衝撃だった。アーディゾーニたくさんの絵本を描いているが、彼が描いた絵本は、どうにも重厚に思えてしかたがない。
この絵本は人形のお話ではあるが、以前紹介した「かしこいビル」と同様に、気がつけば、「生きていくのはこういうものだよ」と、さりげなく語ってるような気がして、「分りましたアーディゾーニさん」と敬意を込めて言いたくなる。
この絵本も「岩波の子どもの本シリーズ」の一冊で、40年以上前に出版されたものだ。古いとも受け取られがちなこの絵は、見れば見るほど渋くて、このお話の舞台に、これ以上ぴったりの絵はない。子ども達のみならず、お母さんたちにも、本当に価値ある挿絵を、見直して欲しいと思う。時代は変わっても、価値あるものの本質は変わらないと信じ、この絵本を読んでいる。


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私の二人の娘は本が好きです。特に上の娘は、いわゆる本の虫で、常時何冊かを平行して読み、活字であれば 新聞から包装紙までなんでも読む子供でした。長じていまは言葉の研究をしています。
さて、彼女がそんなに本が好きになったのは堺谷寛子さんが主催されていた「きらきら文庫」に1歳から6歳まで通っていたからなのです。三つ子の魂百までとはよく言ったものです。
堺谷せんせいの読み聞かせを輪になって身を乗り出して聴いていた子供たちの食い入る面持ち。
  私にとってはその情景はもう遠い昔のこととなりましたが、堺谷せんせいはその後もずっと彼らを恍惚の世界にいざなう仕事を続けています。
きっとせんせいは、子供たちのその眼差しの虜となっているのに違いないと私は思っているのです。




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